郵趣やまぐち」第3号抜粋 (1)
第3号 (昭和24年1月1日発行) 最大のトピックは著名郵趣家の山下武夫氏が山口県出身者であることを自ら語られている寄稿文です。これまで、そうではないかと噂話では聞いていたものの、その明確な証拠を目にしたことはありませんでした。
さらに木村梅次郎が毛利家に仕えていた家系であったことも驚きです。しかも木村梅次郎と大柴峯吉が仲が悪かったことは有名で、山下氏もそれに巻き込まれていたとは想像をはるかに超えるお話でした。後年のため、かなりの長文ながら全文文字起こしをしました。
▼山口県と郵趣家(山下武夫)
新年号ですね。 肩の凝らない話しにしましょう。思い出話もどうかと思うのですが、会員の皆さんが山口県の方ばかりだし、それに皆さんがほとんど初歩の方ばかりのようにうかがっていますから、やはり思い出話をさせていたゞきます。実は、とくに編集の方から御希望のあった課題についてもいろいろ想をねって見たのです。いや「初心郵趣家に贈る」というのを書き上げても見たのですが、読み返して見たらどうもきざっぽくてとてもさし上げられない。それにぜひ山口県の郵趣家について、思い出話をして見たくなったからです。 といふのは、もう長く山口県を离れていますが、私も山口県の出身だからです。熊毛郡平生町の産です。ここにはまだ老父母がいます。満州から一昨年引き上げて来たときも一とまず身を落ち付けたところはここです。 私の中学はあの最近まで郵便局で売っていた一円五十銭切手の図案になっている錦帯橋のあるあの岩国です。 そのころといっても関東大震災のあった大正十二年前ですが、そのころ、現在の切手文化会の吉田一郎さんが、御本職の英習字の方で、全国的に青少年学生層にファンを持っていられた。「京寸」の武田さんもその英習字ファンの方の一流人で、私たちのせんぼうのまとであったものである。私の中学にも何人かのファンがいて、吉田さんがその機関誌「英習字研究」を通じて切手趣味の宣伝を始められると、全国の英習字ファンの中には、にわかに小郵趣家が出来た。かくして私の中学にも数人の小郵趣家が出来、私もそのひとりになって熱を上げだした。もっとも私には親ゆずりの収集癖があって、父は名士の筆跡をさかんに集めてゐた。そしてその目録をわざわざ印刷させて知人間に配布したりする程の凝り方であった。それで、秩序立って集めたものではなかったが、古切手も封筒からはがしただけのものが手箱に一ぱいたまっていたので、中学生のお小使いで間に合わないところは、この手箱の古切手を持ち出して、第一次世界大戦の後、各国がきそって発行し出した、美しくて安い新切手の未使用をさかんに集め始めた。なお切手を集めるだけでは我慢が出来なくなって、田中武雄君という、政治家と同じ名前の一年下の郵趣家といっしょに、とうしゃ版刷りのチャチャな郵趣雑誌を出し出した。 この雑誌の名前には「蒐集趣味」といった文字が入っていたような気がするが、何といっていたかはっきりおぼえていない。むろんそんなものを今までかかえこんでいる人もなかろう。もし物持ちのよい郵趣家でも持っていられたら見せてもらいたいものである。この雑誌も御多聞にもれず、三号まで出たかしら。 この田中君は、その後東大の工科を出て海軍の兵隊になった。私の弟も九大の工科を出て海軍の兵隊になったので、田中君に世話になったそうであるが、終戦後の現在どうしていられるかしら。いっしょに郵趣雑誌を出したときは、君の方が私より兄貴格だったが、その後郵趣は断念されたものか、郵趣界ではお名前を聞かなかった。その外の当時の仲間もみんなその後、郵趣界で名前を聞くようにはならなかった。そのころは郵趣の方の仲間ではなかったが、現在大阪にその人ありと聞こえてゐる森 宗理兵さんは、同じ岩中でしかも同級生だった人。一度きゆかつをしよしたい (椙山注:久闊を叙したい) と思っていながらまだその機会を得ないでいる。
私が震災の翌年東京に移ってから当時若輩ながら東都の一流郵趣人と交際するようになってますます熱を上げ、その後学業をおえ逓信省に奉職して、だんだん郵趣と遠ざかるようになるまでの七八年間に交際した山口県の郵趣家には、山口在住の西重尊義さんと井上侃司さん、萩出身で神戸にいられた赤木秀一さんがある。 西重さんは手紙の上では長くおつきあいしたが、ついにお目にかヽる機会がなかった。お手紙の上から察すると、当時すでに相当なお年だったように想像された。ご職業は井上さんは当時高等学校の生徒で、のちに東大には入って同じ東京に住むようになったので、趣味の友としてだけでなく、私的にも非常に親しく交際するようになって、私の病気のときなど親身にも及ばぬようなお世話になったものであるが、渡満してから文通も途絶えてしまった。井上さんはその後朝鮮に渡られていたようであったが現在はどうしていられるかしら。なつかしい友だちのひとりである。井上さんの名前は皆さんも古い「切手趣味」など、ひもどかれたら、随処に見出されるであろう。 井上さんは私よりちょっと年下だったが、赤木さんは私よりちょっと年上だった。当時お年寄りの多かった郵趣界で、この御両人とは、くにも同じなら、年配も話の合ふ年ごろだったので特に親しくした。赤木さんは当時神戸で蒲原抱水さんが発行していた、現在の「京寸」の兄貴分見たいな収集趣味雑誌「交蒐」の編集を助けていられただけでなく郵趣人としてもさかんに活躍されていたから当時の郵趣家間には知られたお名前だったが、惜しいことに早く他界された。現在しばしばお名前をうかがう赤木実さんとは何か御関係がおありなのか知ら。
もう一つ逸すべからざる名前に、明治・大正・昭和の初期にかけての日本の郵趣界に君臨していた郵樂会の初代会長木村梅次郎氏がある。 といっても若い方には郵樂会の名前も木村さんの名前も、御存知ない方が多かろうが、郵樂会は大正の初め創立され、昭和五年まで続いた我が国の最も権威あった郵趣団体で、木村さんはその会長を勤められていた立派な郵趣家であった。 この木村さんは東京生れだったが氏の父祖代々が毛利家に任えられていたということであるから、氏は一応山口県ゆかりの郵趣家ということになる。 そんな点でも親しまれて、私は氏のお宅にもときおりうかがひ郵樂会にも早くから入っていたものであったが大柴峯吉氏の郵便切手社のお手伝いをするようになって、すっかりおかんむりをまげられ、それきりおつきあいも絶えてしまった。
こんな郵趣界の大御所ゆかりの地でありながら、当時の山口県出身の郵趣家には、上述の方以外に思い出す名前がない。そして山口県には本会の出来るまで郵趣団体が存在しなかったことはどうしたことであろうか。
本誌創刊号に御寄稿の柘植さんとは、面識も文通もしたこともないが、お名前はよく存じ上げている。交際がないくらいであるから、山口県の御出身とも知らなかったが、氏も大分お古い郵趣家のようにお見受けする。
「郵趣人国記・山口の巻」のつもりか身辺雑記に毛のはえた程度になってしまって、お読みづらかったことと思い、恐縮しています。最后におことわり、私は案外の筆ぶしょうで、なかなか御返事を書きませんから、特別の御用でないかぎり、なるべくお手紙は下さらないように願います。失礼するといけませんから。(おわり)
ーーー 昭和二三・一一・一◯ 稿 ーーー
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