手作りカバーは異物添付のさきがけ
印刷技術の飛躍的な進歩によって今では切手における異物混入・添付は珍しくなくなりました。しかし、日本の初日カバー自作愛好家の先人たちは、今よりもはるかに多種多様な「異物添付」を行っていました。今回、東京・新宿の旭スタンプさんから大量寄贈いただいた郵趣品の中からも興味深いアイテムがいくつか出てきましたので後年のために記録掲載しておきます。
◆定額小為替受領証貼り
住友生命名古屋ビル内 4.4.7(開局記念カバー)
薄物を剥離しないように全面密着すれば封筒でもはがきでも基本的には認められます。実際に郵便物として送る「引受消印」以外の「記念押印」ならばさらに許容範囲が増えます。そのもっとも一般的な例として複十字シール、記念たばこパッケージと並ぶ定石アイテムに定額小為替受領証があります。見てくれは必ずしも美しいとは言い難いものの記録性優先という考え方によるものです。為替印が押されていることも重要ポイントです。郵政三事業の郵便・貯金・保険が一体だった時代ならではのメモリアルですね。ただし、郵便と貯金のコンビネーションはよくあるのですが、保険も加わった事例はなぜか滅多に見ません。
◆乗車券貼り
名古屋中 4.4.4(444数字並び記念カバー)
つい最近のような気がしますが、実際はこれも20年前の物かと思うと感慨深いです。しかし、花電車のようなカバーですね(笑)。当時の郵趣家は元気あふれておりましたね。
カシェ代わりに貼られているのは名鉄の金山駅の4-4-4日付の軟券です。鉄道のきっぷ類もよく貼られていましたけれど、硬券とは違って印字が消えやすいのですっかり廃れてしまった感があります。正直、これもだいぶ薄くなっています。なお、これに割印されている消印が読みにくいのですが、愛知DO金山郵便局(あいち・ドゥー・かなやま)です。軟券と言えども、こんなわずかな高低差で印影が欠けるのが、ある意味では金属印の弱点ですね。
今はループ金山局と改称されているようですが、現在の金山総合駅が完成した平成元年、JR側のサインデザインとその施工管理をしていたので特によく覚えています。
【注】上記2点が作られた平成4年(1992)時点では郵趣界ではまだパソコンは皆無で、やっとワープロが使われ始めた頃かと思います。それでもすべて手書きに頼っていた時代に比べれば革命的な新技術であることには違いありません。手先が不器用で字にも自信がない多くの郵趣家にとって、自作カバー作りの光明となったのでした。文房具の変遷もこれら自作カバー上で確認することができます。
◆マッチ箱貼り
東京 43.4.20(郵便番号導入関係カバー)
昭和43年の切手趣味週間の初日カバーの体裁をしてはいますが、その実態は、7月1日の郵便番号制度導入を目前に控えたPR記録のためのカバーと言えましょう。
初日印を押印にきたところ郵便局でこのマッチをもらった。その場でとっさにひらめいて箱を開いて手持ちの白封筒に糊付けし、切手・封筒・マッチ箱にまたがるように割印したものと思われます。貼り位置が左に寄っているのはちょっと不格好ですが、それほど急に思いついたアイデアだったということでしょう。今のように喫煙に何ら抵抗感のなかった時代ならではのカバーだと言えましょう。
◆市販封筒の販売帯紙貼り
東京中央 43.1.20(郵便番号導入関係カバー)
これも昭和43年用年賀小型シート交換初日カバーの体裁をしていながら郵便番号制度導入を目前に控えた記録のためのカバーだと言えます。
詳しくご説明します。下部の赤い帯紙は5桁の郵便番号枠を印刷した白封筒の帯紙です。つまり、昭和43年1月20日の時点で、市中の文房具店で郵便番号入り封筒が既に販売されていた証拠です。郵便番号が7桁に切り替わる時、市中の封筒やはがき用紙の切り替え時期について自分も観察して記録を取っていたものです。同じことを考えていた先人がいたという何よりの証拠です。その文面は以下の通りです。
『この封筒に印刷してある赤いワクは、近く郵便番号制度が実施された場合に、その番号を記入していただくものです。』
裏面には「転居の通知はすぐ郵便局へ」の標語と、定形郵便物の最小・最大のサイズおよび厚さの図が印刷されています。
昭和41年10月1日から導入された現在の「定形郵便制度」もまた「郵便番号制度」と双璧をなす郵便処理自動化(機械処理化)のための新制度でした。そのふたつが出会った帯紙と表現したいところです。
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