January 17, 2019

平成最初のお年玉付き年賀はがき抽選会

2019011702 来たる1月20日(日)に、平成最後のお年玉付き年賀はがき抽選会が、東京都千代田区のJPタワー ホール&カンファレンスで開催されます。抽選会場に行かれる方は配布されるチラシ類など決しておろそかにされず大切になさってください。なんせ”平成最後”なのですから。
・・・という関係で、今回は”平成最初”のお年玉付き年賀はがき抽選会資料をご覧いただきます。
 この時は事前に参加応募する必要がありました。当選すると緑色の座席指定券とご招待状が郵送されて来ました。改めて申し上げるまでもなくこれがその実物です。

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 抽選会会場は横浜市市民文化会館・関内ホールでした。その際に作成財布された記念タトウ(押印台紙)です。表紙は当該年賀切手・・・くしくもこれが日本最初の、そして世界で2番目のくじ付き切手です・・・の原画があしらわれています。内側は記念押印台紙スペースとともに500円のふみカードまでセットされているという大盤振る舞いです。バブルの香りがしますなあ(笑)
 注目していただきたいのは内側の見開き左側です。抽選会に合わせてあつらえられた記念小型印は当然として、右上の1円・5円切手に消印がありません。ぱっと見では欠陥郵趣のように思えますが、実はこれが正しいのです。この当時は、記念押印に関して「一連・一群」の決まりがありましたので、この2種には押印できなかったのです。「一連・一群」の決まりが廃止され、押印できるようになったのは平成7年7月7日の後まで待たねばなりません(注参照)。

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 抽選会のプログラムもご覧いただきます。司会が夏木ゆたか、中井美穂そして柏原芳恵オンステージと懐かしい面々です。賞品にもご注目ください。衛星放送受信テレビやインスタントカメラなど時代を感じるアイテムです。

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 横浜港郵便局で配布されていた当選番号チラシです。日本郵便の社員サイトからダウンロードした当選用紙を各局で印刷・断裁しているだけの現在とは全く違い、たいへんな熱の入れようです。今では姿を消したワープロによる原稿製作そしてプリントゴッコを使った2色印刷も懐かしいですね。

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 平成最初の抽選会も29年も昔の出来事になりました。だいたい30年経つと収集の難易度の見当がつき始めるといいます。平成最後の抽選会も然り、4月20日に行われる第2回抽選会も注目です。その両方の紙モノもぜひ遺漏なく収集なさってください(不要でしたら私にください)。


(注)平成7年7月7日こと777ラッキーセブンの日、当時の郵便局が作成した記念押印台紙に「一連・一群」のルールを守っていない違反品が続出しました。規定違反で押印してあるもの、決まりを遵守したがために未押印のままのものなど、どっちにしても郵便商品としては欠陥品です。職員自身が理解できない・守れないルールでは意味がないということで、「一連・一群」の決まりが撤廃されました。


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「はたらく細胞」シール

2019011701 Aさんからテレビアニメ「はたらく細胞」シールをご恵送いただきました。いつもありがとうございます。下部に”ゆうパックスマホ割アプリ」と記名されているように、ゆうパック関連のノベルティー品です。昨2018年12月29〜31日の3日間にわたって東京ビックサイトで開催された「コミックマーケット65」で配布されました。

 日本郵便さんも荷物の搬入・搬出、また企業ブースへの出品などで参加していました。今回は荷物の搬出時に「ゆうパックスマホ割アプリ」を使って荷物を3個以上送るとこのシールが1枚もらえたとのことです。現地にゆうプリタッチの機械も持ち込まれていたそうです。

 日本郵便さんの熱心さに比べ、ツイッターでもこれをもらったという言及は数件にとどまっており、そんなに量は出ていないようです。後日のためにご紹介しておきます。


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January 16, 2019

ワールド・スタンプ・ナウ 第164回

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 公益財団法人日本郵趣協会の会報・月刊「郵趣」誌2月号が無事に校了しましたので恒例のチラ見せです。

 今月号の見どころはクリスマス切手です。タイミング的に全世界のクリスマス切手が掲載される時期だからです。それもどの国や地域のものも工夫を凝らした一品揃いです。かつてのように伝統的図案で格式があり上品かつ美しい・・・なんてのはもはや少数派です。楽しくポップなクリスマス切手のオンパレードなので、ご面倒でも世界新切手ニューズ欄は隅々までチェックなさってください。スペースには物理的限界というものがありますので、私の担当記事で取り上げたのは全トピックの1/3にも満たないのですから。

 そんな中で特にイチオシなのがこれです。カミキリムシの幼虫を食べるお祭りの切手です(笑)。文中に記しましたように、食料問題解決のために昆虫食が真面目に研究されている現代、環境郵趣の一環とも言えるテーマです。
 さすがニューカレドニア、気候に恵まれているのでサイズもでかく直径2センチ、体長7,8センチはあるとのこと。蜂の子なら大好物の私も、さすがにそんなビッグサイズをしかも生で・・・はちょっと自信ないです。
 さりながらカミキリムシの幼虫は、分布地域のほとんどで食されているそうです。かく言うわが国でも同様に食されているとか(サイズは小さいそうですけど)。どなたも美味しい!と大絶賛。おひとついかがですか?


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日本のシール式切手30周年(安全宣言)

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 平成元年7月3日、日本最初のシール切手が発行されました。その初日カバーをお示しします。何の変哲もありませんが実はそれが重要なのです。

 私は全世界の変り種切手収集の一環でシール式切手も1960年代から集めています。最初こそキワモノ扱いでしたが、1980年代末頃にはその利便性が評価され、アメリカ、カナダ、スイスなど先進国でも次々に採用になりました。しかし、シール式切手はそれまでの政府印刷局や証券印刷会社にはない製造設備が必要です。新たに設備投資をしてまで取り組むほどのうまみははないと古参の印刷会社は軒並み撤退し、アメリカ切手に至っては今ではシール・ラベル製造会社が切手製造を請け負っています。
 そこで問題になったのが品質劣化の問題です。特に裏糊の劣化は全世界で発生しています。もともと数10年単位での品質保証などあり得ないシール・ラベル業界です。わずか数年のうちにセルフ糊成分が変質し、油染みや黄化・固化する現象が多くの国で見られます。高品質で有名なオランダ切手でさえ、自然に切手が剥がれ落ちてしまう状態が起きています。

<参照記事>
警告:シール切手の劣化が始まった
シール切手の劣化

 ところが日本切手だけはその変容現象がまったく発生していません。従来の裏糊式切手同様にまず水溶性の糊層があり、その上にセルフ糊層がある日本独自の構造も関係しているのかもしれません。いずれにせよ平成30年7月3日で満30年を迎えます。日本のシール式切手に関しては品質保証・安全宣言をして良いものと考えます。

<追記>
 なお、本券だけに限りませんが、今年改元を迎えますので、30周年記念カバー類を作ると和文印は1.7.3となり、平成年号と区別がつかなくなります。平成元年当時にはなかったインク浸透式和文印(シャチハタ印)を使えば違いがわかります、とはいえ一般的ではないでしょう。しかも、この手もシャチハタ印の全国配備が始まった平成11年以降発行の券種では使えない可能性があります。違いが明瞭な欧文印やメータースタンプなどをうまく使いましょう。あるいはぱっと見で区別がつかないことを面白がる向きもあるでしょうね。


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January 12, 2019

箱買い・箱売りで売買のトレーニングを

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[買う]
 福岡の即売会でのことです。段ボール箱2箱に満杯詰めの実逓便が一通100円だかで売られていました。とある紳士が興味深そうに見ておられたのでいっそのこと箱買いをと勧めました。店主も送料込みで3万円でいいですよと仰る。しかし、その紳士は決断がつかず「箱で買っても置き場所がない」と自分に向けた言い訳を呟きながら、結局抜き買いで7,000円も払って帰られました。

[売る]
 広島の郵趣イベントでのことです。私の生前処分の話を聞いた高齢収集家の方がアルバムを持参されました。しかし、話を聞いているとどうもおかしい。よくよく聞いてみると、すべてに値段を付けることができないと仰る。時間的にも無理だし、個々の思い出もあって値付けに悩んでしまうそうな。そうです、1点ずつのバラ売り前提だったのです。

 買う例、売る例とも稚拙だというのがおわかりでしょうか。数万、数十万円以上もするものでもないのに、一枚ずつちまちま売買するなんて、いい大人がいつまでもそんな近視眼的スタイルに留まっていたら人生何年あっても大したコレクションはできませんよ。大局的な視点からコレクションあるいはアキュームレーション売買にシフトしましょう。

 突き詰めればモノを持ってさえいれば勝ちなのがコレクターの世界です。細かく分類整理するなんてのは後回しでけっこう。底引き網漁のようにごっそり買って、あとでゆっくり整理すればいいのです。
 [買う]例でも7,000円といったら3万円のほぼ1/4ではありませんか。箱で買って残りをまた箱売り(転売)すればトータルで自分用は7,000円以下にすることができたはず。上手くやれば元が取り返せるどころか利益すら出ていたことでしょう。あるいは同じような箱単位で交換し合うだけでもさらに収穫品があることでしょう。

 売る場合でも箱売りを基本にしましょう。1点モノ売買で高額取引できるのはその世界のビッグネーム、トップコレクターさんだけのお話です。我々のような庶民、サラリーマン収集家とは無縁です。
 よく考えてください、1点が数百円、高くても2〜3,000円クラスのものを値付けして割りに合うとお思いか?。しかもバラ売りした残りは本当の残り物なので99.9999%以上売れ残ります。手間暇かけてちょっとは得するかもしれませんが最後に残るのは大量の不要品です。お手上げです。

 1点ずつ吟味しながら買ったり売ったりも楽しいことはわかります。ですが、できるだけまとめて大量の箱買い・箱売りにシフトしましょう。売買双方にメリットが大きいからです。
 まるで切手商さんのようだと思われるかと思います。何も切手商になれと言っているのではありません。プロのやり方を学びましょうという意味です。郵趣会例会で売買のトレーニング教室も必要なのかなと考え始めているところです。

 いずれの日にかコレクションを次世代に受け渡さなければならない時が来ます。1点ごとの値段の高い安いがいちいち気になるようではまだまだです。

(冒頭の図版は送料込み7,000円で箱買いした外国郵便のアキュームレーションです。まずは一万円以下の少額から始めてみましょう。)

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硫酸瓶の歴史

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山陽小野田市歴史民俗資料館で始まった「企画展・硫酸瓶の歴史」を見てきました。ポスター写真に使われている茶色い硫酸瓶は、その名の通り硫酸を運搬するために作られた容器ですが、口部の作りが異なるだけで焼酎瓶、水瓶などの用途で山口県内ではごく普通に見られる生活用品です。うちも元は農家でしたから、かつては肥料入れなどに使っていました。

 後述しますが、山陽小野田市における焼き物の歴史は、現周南市の富田(とんだ)出身の甚吉(じんきち)が1840年(天保末年)に旦(だん)に来て窯を開いたのが始まりです。富田とはまさに私の本業会社のある旧新南陽市のその場所です。ひょんなことでそんな奇縁を知り、もう何年も前から関心を持っていました。

 その企画展があるというので開催初日に行ってきたわけです。まるで核シェルターかサイロを思わせるようなコンクリートの建物が山陽小野田市歴史民俗資料館です。

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 企画展は撮影禁止なので常設展のごく一部のみ写真に撮ってきました。読む方の理解が追従しないと思いますので以下、文字に書き起こしました。

[やきものの復活]
 須恵器(すえき)以後、久しく途絶えていたやきものが天保末年(1840年代)新南陽市富田出身の甚吉が、旦に来て窯を開きやきものの生産を復活した。のちに久野、姫井らが業をつぎ明治初年にかけて皿、鉢、片口、摺鉢等の日用雑器を生産し、旦の皿山(さらやま)とよばれた。
 その後製陶業は周辺に拡がり土管、れんが、瓦等に発展、さらに舎密(せいみ)会社(現日産化学)の創業により硫酸瓶、大正年間に焼酎瓶等を製造したが、容器の改変により衰えた。
 その甚吉の墓が下の写真です。安政5年(1858)没。墓は田平山墓地にある。

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 以上、ここまでが基礎知識部分です。これをなぜ郵趣ブログのHYPER Philatelistで扱うのか。それは明治の初め、硫酸の製造に印刷局が関係していたことも本展で紹介されていたからです。
 しかし、たいへん残念なことにメモを取るのは良いけれど、写真撮影は一律禁止のうえ図録・レジュメの類すら一切ないという厳しい状況でした。既に廃れてしまった遺物ですし、解説文も含めてとっくにパブリック・ドメインのはずなのですが・・・。
 ここで不満を書き連ねても仕方ないので、書き写してきた解説文と学芸員さんのお話を以下にまとめました。事情を斟酌していただき、私の書き取りや聞き間違い・解釈違いがあるかもしれませんのであらかじめお断りしておきます。ご心配の向きの方はご自身で本展をご参観ください。

[ごあいさつ]
 市内に点在する赤茶色に焼かれた陶製の瓶。本来の用途を終え、積み重ねて垣に利用されるなど道路や公園、軒先を飾るそれらは、明治時代にできた化学工場の製品のための容器として製造された陶製耐酸瓶であり、「硫酸瓶」と呼ばれていました。
 硫酸瓶は主に旦地区で製造されていました。旦地区は、良質な粘土が採れ、江戸時代に皿などの日用雑器を焼く窯が築かれたことから「皿山」と呼ばれていましたが、明治から昭和にかけては、硫酸・硝酸などの化学薬品を入れる耐酸瓶や形の似た焼酎瓶等を製造するようになり、最盛期には全国シェア70%とも言われる一大地場産業となりました。
 しかし、硫酸瓶の出荷で賑わった有帆川に架かる小野田橋のたもとには、大きな硫酸瓶のモニュメントがありますが、近年、その名前や用途、それらを製造していた窯が市内にいくつもあったことなどが忘れられつつあります。
 本企画展では、硫酸瓶の製造がなぜ本市の一大地場産業となったのか、その歴史を紹介し、これまで来館者の方々からいただいた「硫酸瓶って何?」という質問にお答することを目的とします。
平成31年1月 山陽小野田市歴史民俗資料館

[国産初の硫酸と硫酸瓶の製造]
 明治2年(1869)2月5日、明治政府は大阪に造幣局を設置した。貨幣鋳造には、古い貨幣や鉱山地金を分析、精製、洗浄するのに大量の硫酸を要したが、当時の日本は輸入に頼るほかなく、硝子瓶に入れてドイツより輸入していたため、硫酸は極めて高価な化学薬品であった。
 そこで、造幣局は硫酸を局内で製造するべく、イギリス人技師ローランド・フィンチを招いて、その指導の下に硫酸工場を建設。明治5年(1872)、日本で最初に硫酸の製造を開始した。
 局内で使用する硫酸は、硝子瓶に入れて運搬していたが、輸出するためには、その容器が問題になり、容器の製作を化学工業界の先覚者宇都宮三郎に委嘱した。宇都宮は京都の陶器師高山耕山に命じて土の配合、焼成の方法などを研究し、茶壺からヒントを得て、陶製耐酸瓶を作らせたが、清水焼では高価になるので信楽(滋賀県)で焼かせ、明治8年(1875)造幣局は信楽産の瓶を使用して清(中国)に輸出した。この瓶がどのようなものであったかは不明であるが、貨幣鋳造という国家事業により、国産の硫酸と硫酸瓶製造が始まったと言える。
 硫酸が輸出されるのを受け、民間で硫酸と硫酸瓶の製造が始まるが、その頃、小野田では日用陶器の製造が続いていた。
(椙山注:貨幣を作るのが造幣局、紙幣・切手・印紙・国債などを作るのが印刷局)

[民間初の硫酸と硫酸瓶の製造]
 明治12年(1879)5月、元造幣局長豊原百太郎が首唱者となり、大阪の実業家、光村弥兵衛(光出身)、藤田伝三郎(萩出身)、中野梧一(初代山口県令)その他が、資本金10万円の硫酸製造会社を組織し、工場を大阪市西成郡湊屋町に建設。翌13年4月から民間で初めて硫酸製造を開始した。硫酸瓶は信楽産(滋賀県)を使用していたが、大阪までの運搬が不便であったという。
 そこで、硫酸瓶の需要を見越した寺村富栄(滋賀県)らは陶器師高山耕山と諮り明治15年(1882)、大阪府西成郡湊屋新田に資本金1万円で硫酸瓶製造会社を設立した。明治16年(1883)、経営を硫酸製造会社に委託したが、明治21年(1888)、近代化建設が進む中、耐火煉瓦を製造する大阪窯業会社として更生、硫酸瓶の製造は明治26年(1893)まで続けた。
 明治22年(1889)7月6日、豊永長吉(元長府藩士)が発起人となり日本舎密製造株式会社が設立されると、明治24年(1891)、小野田工場で硫酸の製造を開始した。ドイツや信楽から瓶を取り寄せていたため、地元の製陶所に「ドイツ瓶」を見本に示し硫酸瓶の試作を依頼、明治26年(1893)硫酸瓶の製造に成功した。以降、明治中頃には小野田の硫酸瓶生産高が信楽を抜いたといわれている。

[造幣局、印刷局の関わり]
 以下は解説パネルの書き写しと学芸員さんの説明を記憶を辿って記します。時間軸の流れでは以下のようになります。

・明治2年(1869) 造幣局設置
・明治5年(1872) 日本で初めて硫酸を製造
・明治8年(1875) 清(中国)へ硫酸輸出
・明治16年(1883) 印刷局が造幣局を視察
・明治19年(1886) 印刷局王子製造所建設
・明治23年(1890) 御料局/佐渡支庁附属王子硫酸所が施設を引き継ぐ。
 工場設備はそのままで運用を任せた。今で言うとリースのようなもの。

 なぜ印刷局が硫酸を必要としていたかについては、学芸員さんのお話だと紙の漂白に使うさらし粉製造のためだったとのことです。
 そこで明治19年以後というと明治21-25年(1888-92)新小判切手が該当します。この時期から国産の漂白剤を使用開始していたということになります。
 しかし、明治13年には民間でも硫酸製造が始まっていますので、印刷局がいつまで自局製品を使い続けていたのかまでは不明です。漂白工程のみならず製紙そのものから小判切手収集家の皆さんの研究にお任せします。

・明治27年(1894) 日清戦争始まる
・明治28年(1895) 設備を陸軍省に譲渡

 以上で本展の解説は終わっています。

[皿山のはじまり]
 皿山とは、陶磁器生産の盛んな地域の呼び方で、「有田の皿山」など主に九州地方で使われる。
 小野田の皿山は、江戸時代の天保末年(1840年代)に富田(現周南市)で製陶にたずさわる家から旦の伊藤作右衛門宅に寄寓していた甚吉が、この地の土が焼き物に適していると語り、目出に移居していた萩藩士佐世彦七(前原一誠の実父)からの出資を受け、窯を築き、皿など日用雑器を焼いたのが始まりである。
 当時は、製品の販路も少なく盛況とは言えず、安政5年(1858)に甚吉が亡くなると、松本藤太郎が甚吉窯を経営するが長く続かず廃業した。その後、慶応2年(1866)久野彦左衛門、明治元年81868)姫井伊三郎、明治9年(1876)三好源之助などの製陶所の勃興が続いていった。
 明治24年(1891)日本舎密製造会社小野田工場ができると硫酸瓶の需要に応じ皿山は活気づき、加えて、焼酎瓶の需要もあったことから製陶所が増加し、まちの一大地場産業として栄えた。昭和26年(1951)には26製陶所を数えた。
 しかし、昭和30年代(1960年代)になりポリエチレン製容器の登場や、タンクローリーでの輸送が増えると、硫酸瓶の需要は無くなり、製陶所は徐々に姿を消していった。

※これ以上の詳細資料はFSC会報(facebook内の専用会議室)のみに掲載します。


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January 08, 2019

追悼水木しげる ゲゲゲの人生展

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 グラントワ(島根県立石見美術館)で開催中の表題展に行ってきました。昭和36年生まれの私にとって、日本の妖怪と言えば水木先生の創り出されたイメージがそのまま自分の妖怪観になっています。おそらく世代を問わず日本国民の多くがそうでしょう。
 水木先生は、絵巻物や江戸の版本に出ている妖怪は当時の人が描いた形を尊重し、姿が伝えられていないものはその妖怪をイメージして姿を与える。・・・そのおかげで私たちは砂かけ婆、子泣き爺、一反木綿たちを身近な物の怪として親しんでします。
 また、水木先生のお仕事はそれだけにとどまりません。あまり目にする機会のないクレヨンと水彩画、絵本の挿絵など、妖怪物とは全く違うタッチの作品群にはたいへん驚かされました。とにかく絵がめちゃくちゃ上手い!。絵描きで食えるようになるには一千万円かかると言われて職業画家の道を諦めたとのことですが、そんないい加減なことを一体誰が言ったのでしょうか。あの画力があればふつうに絵描きで通用したはずです。
 一点一点じっくり見ていたら昼メシも食いそびれ、低血糖気味になってしまったのでおしまいの方はゆっくり見れませんでした。今月いっぱいの会期ですので、なんとかもう一度再訪したいと思います。(上図は「だいだらボッチと土転び」ポストカード)

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 本展は記念押印趣味の郵趣家には最適でした。前売券(左)、前売券を買うともれなくオマケでいただける変形フライヤー(中)ともに最寄りの益田郵便局で記念押印しました。展覧会ロゴの入ったポストカード(右)も販売されていましたので、それにも記念押印してマキシマムカード(MC)化し、郵趣作品に仕立てました。
 押印台紙にふさわしい余白がない、あるいは印刷面のコーティングが強すぎて消印インクが定着しづらそうな場合は図のように満月消にします。シール式で図案もおとなし目の切手をチョイスするのがコツです。また、消印の一部がわずかでも台紙にかかるようにするのは私の好みです。
 なお、よほど図案がマッチングしない限り風景印を使わないのも私の好みです。何が主役・主題かわからなくなりますのでね。

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 特に印象的だった原画ポストカードを2点ご覧いただきます。いずれもMC化しました。

・(左)車輪で遊ぶ水木少年
 自宅裏で遊ぶ水木少年と弟。自宅があった鳥取県西伯郡境町入船町は、昭和31年(1956)より境市入船町に改められた。

・(右)丸い輪の世界
 妹を亡くした少年の前に「輪」のようなものが出現。中に入ってみたところ、そこには死んだはずの妹が一人さびしく遊んでいる。丸い輪は異界への出入り口だったのだ。

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 お馴染みの鬼太郎と仲間たちのポストカードも2点ご覧頂きます。もちろんMC化しました。特に右側の目玉おやじは水木先生ならではの格言が魅力的です。
 昭和46年(1971)、先生が49歳の時、「鬼太郎」アニメの第2期放映開始と共に、再び妖怪ブームが訪れた。連載誌は12を数え、イベントにも駆り出されて疲労困憊して倒れてしまわれた。以後は仕事を減らし、睡眠の大事さ、のんきに暮らす効能に気づかされたとのこと。
 これ以外にも「のん気にくらしなさい」「けんかはよせ腹がへるぞ」など、水木先生ならではの格言を記した色紙類が展示されています。

 以下、これから参観される方へのオススメを記しておきます。

 全体に言えることですが、保存状態も良かったのでしょう、何より原画がたいへん美しいです。今の印刷技術はたいへん素晴らしいので、ふつうは原画より印刷物の方が綺麗であることが多いです。テクノロジーとともに印刷技術者の皆さん自身の能力が高いからです。
 ところが同展に限っては原画の方が良いのです。時代物の紙芝居風に描かれた「物の怪の宿」が特に美しかった印象があります。

 展示コースのおしまいの方に各界著名人から寄せられた追悼メッセージコーナーがあります。俳優の佐野史郎さんが先生に言われたというお言葉が印象的でした。
「出雲の神様が夢枕に立ってもっと出雲のことを知らせてもらわんといけんといわれた あんたもそうでしょ!?」

 最後に9分ほどの布枝夫人のインタビュー映像が見られます。その中に水木先生のお別れの会の祭壇が大きく映し出されます。その中央部分にさるお方からの献花名がはっきり見えます。しかるべき配慮を以って図録集でもその場面の写真は小さくしか掲載されていません。これもぜひ会場でご覧ください。水木先生が国民作家であったことがよくわかります。

 グラントワの後、新潟市新津美術館、広島県立美術館、水野美術館と引き続き巡回展が開催されます。


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”東京”入り向島局風景印を元旦から使用開始

2019010802収友のKさんからご恵送いただきました。ありがとうございます!。
 タイトル通り、局名の前に”東京”の表記が入った、これが初日印だそうです。日本郵便さんの風景印ページには特に何も記載はないようです。
 同一局名の有無に関わらず、郵便印と呼ばれるものにはすべて都道府県名を冠するというルールに統一した方が明快で良いと思います。大歓迎です。でも、予告くらいはして欲しかったかな。


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